あまいカフェオレ

この話はケーキバースです。カニバリズム的描写、嘔吐、などを含みます。

 

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恥の多い生涯と彼は言った。

 

人間の嘘をついてなお己の浅ましさに囚われない理由ワケをわかれないことが、親から与えられる当然の愛情を知らないことが、生きるための甘美な味がしないことが、そうならば私もそうなのだろう。

葵にはおいしいがわからなかった。

遠い記憶のミルク菓子も、高名な料理人のコースも、香り高い紅茶も、味というものがわからなかった。いくらか食感の中にマシだというものがあるだけで、甘いだの塩辛いだのいったい何を指しているのかさっぱりであったのだ。

大勢で囲む食事もそう。パンに乗せる脂の塊は表面を滑らかにさせるだけだし、サラダを着飾らせる液はせっかくの食感を鈍らせるものでしかなかった。そのことに、早く気づいてしまったことが葵にとっての大きな災難だっただろう。自分にはよくわからない感覚であっても、隣の人間がおいしいというから表情を合わせて同じようにふるまった。これは嫌いだと誰かがいうから、真似をして嫌がってみせたりもした。

食事は葵にとっていつも通り取り繕って周りの望む姿を見せる場でしかなかったのだ。

これだから、ニュースや本で誰かが語るフォーク性の”失う悲しみ”もわかっていなかった。多くのフォークは後天的に味覚を失うものだから、それまでおいしく食べていたものが何の味もしなくなる。まるで消しゴムでも食べているようだ、と。葵には消しゴムの味もわからなかったから、あぁ、これが消しゴムの味なのかとパンを口に入れながら思った。

もう一つ、葵がわかるはずの味がある。ケーキ性の味だ。ケーキ性の人間の血肉は、いや、それだけではない。涙、唾液、皮膚などはフォーク性にとって何とも言えぬ甘美な味がするという。それは、失われた味覚の世界に差し込む一縷の救いであり、それが、ケーキの味だそうだ。

ただ、葵はそれが特段欲しいとも思っていなかった。それまで味覚があった人からすれば、喪失に耐えられずケーキ性に執着し最終的に捕食に至ってしまうこともあるのだろうと思うが、元々知らないものを知らないまま終わっていくだけだ。何も問題はない。ケーキ性なんかに欲をかいて、世間から予備殺人鬼として扱われる方がよっぽど問題じゃないか。そんなことで世間から否定される必要はないだろう。

 

 

そう思っていた。確かに。二十余年、それに出会うまでは。

 

甘い匂い。

本能的にその元を辿る。口の中には唾液がたまり、ごくりと喉を鳴らした。

”あまい”という感覚を、もっと固いものと思っていた。パンの上に固まる砂糖のように、冷やし固められたチョコレートやクッキーのように。

水に溶かした砂糖のように、漏れ出るクリームのように含み切れなかった唾液が喉を滑らせて、その感覚にすら身震いがする。

食べたい、その身体を舌にのせて味わってみたい

ビルとビルの間に、その陰に身を滑らせるところで腕をつかむ。滑ついていて、自身の心臓の音が跳ね返る。はじめての感覚に緊張?動揺?をしているのか?惚けた顔はビルの闇に包まれて見られなかったようだが。

「なんだお前」

街中で急に腕をつかまれたら誰だって不審に思うだろう。そりゃあそうだ。無造作にまとめられた黒髪から覗く切れるような目つきに睨まれ、背中に氷を入れられたような感覚。頭に上っていた熱がさァッと引いて正気に戻る。

「あ、あぁ、すみません、人違いのようで」

両手を顔の横で広げて悪意のないことを伝えると、彼は不審げにその奥に吸い込まれていった。その姿が見えなくなると同時に、糸が切れるようにその場にへたり込んでしまった。吊り上げていた口角もその力を失ってだらしなく開く。この残っている香りだけでも、だけでも、……だけでもどうしようというんだ。思考が追えないほどのスピードで葵を置いていく。浮かんだり消えたりする発想の一つひとつをつぶして回らないといけないというのに。

 

その日の食事ではくぅと初めて腹が鳴った。口に異物を運ぶたびに、本能が違うと叫ぶ。こんな味気ないものじゃなくて、あの甘い、あれを、あれをたべたい。握った腕は細くてかじりつけば簡単に折れてしまいそうだったし、あの反抗的な眼玉を、……

先程まで食べていたものが、床に散乱する。まだ消化されていないから形を保ったままで、自分の体に入ってくるべきはこんなものじゃなかったと言っているようだった。生理的な欲求と嫌悪感が同時に押し寄せてくる感覚にたまらず、また胃の内容物をぶちまける。熱い体液を吐き出してなお機能しない味覚ならもう、全部なければよかったのに。

 

彼は今日もまた同じ時間に同じ場所に現れた。喰らうためではない、抑えるために、まず、敵を知るのが必要だろう。路地裏を近道とばかりに通り飲食店に入る。昨日の今日で鉢合わせをするのは気まずいから、入り口が見える向かいの喫茶で待つことにした。カフェオレで何時間か居座って、ついでに店員のポケットにしかり組織の連絡先を入れたころ、くたびれて店から出てきた。入る前もくたびれていたような気もするが、ともかく。何も警戒していないからか気づかれず家の場所まで特定することができた。

それからはたいてい、家と仕事場とたまにスーパーの往復だった。考えるだけで溢れそうになる唾液も、カフェオレでなんとか誤魔化して過ごせるようにもなった。ちゃんと、ちゃんと抑えていれば本能だって飼いならせるはず。欲望に負けて喰らうような他のフォークとは違うのだ。そんな傲慢な考えがひき寄せた結果かもしれない。いつもと違う光景に圧倒された。

髪を振り乱した女性が、大口を開けて飛び掛かってくる。あの剣幕は、そんなこと考える間もなく飛び出していた。フォーク性が暴走した姿。果てはこんな醜くなってしまう。本能に振り回されて可哀そう、醜い、これは私の獲物なのに。忍ばせているスタンガンで殴って、殴って、。半分くらい泣いてしまっていたかもしれない。動かなくなった、それの前にへたり込んだ。

「あの、助かりました。ありがとうございます。」

遠慮がちに肩に伸ばされた気配に「さわるなっ!」体裁も保てず振り払う。

「あなたは、貴方はケーキなんだ……!これはフォーク!だから襲われたんだ……。私もフォーク、なんです。いつかこうなってしまう、こう……」

「……怪我、してますし、助けられておいて放るのはさすがに。家、近いので手当てくらいなら」

人がいいのか莫迦なのか、そのあとなんて返したのかは思い出せない。

 

 

シンプルなワンルーム。座らされて庇いに入った時に噛まれた傷に消毒液を押し付けられていた。フォークの血なんて何の意味もないのに。

「カフェオレ、飲めますか」

うんともすんともつかない返事をすると目前にインスタントのカフェオレが置かれた。バカみたいなお人よしは所在なさげに頭に手をやっている。所在がないのはこちらだ。

「あの、先ほどは取り乱してしまってすみません。」

ああ、まあ、はい、と雑な返事で流されて、また沈黙が場を支配する。

口を開いてしまうと何か、言わなくていいことを口走ってしまいそうで、諦めてカフェオレに口を付ける。縁に口を付けて細い息を送るとほのかに甘い香りが広がる。なんだ、なんでだ。とうとう味覚が?と早急に口に含むも、いつもどおりただ温かい液体が潤すだけだった。ケーキの何か、一部が入ってしまったか、それとも。あぁ、カップの触れたところに何かが残っていたのかもしれない。こんなものにいちいち希望なんて見出してしまって。本当に馬鹿なのはこちらだ。

 

「……ごちそうさまでした。」

荷物を持って立ち上がると、彼は玄関の電気をつけた。あ、そうだ。こんなに追っていたのに名前も知らない。

「申し遅れましたが、天海葵と申します。今日はお世話になりました。」

「ああ、……皇、清仁と言います。お気をつけて。」

 

 

 

 

 

 

空になったカップを洗いながら思い出す。ほんの今日そこであった人がいくら助けてくれたからって部屋にあげるだなんて正気じゃなかった。ただ、震えて「助けて……」と零すのを見たら、流石に放っておけないよなぁ、なんて。