月が嗤うのは

なんでかは知らない。

 

こんな何年もずっとこうなのにわからないんだけど、きっとどこかの誰かは知ってるんだろうな。いや、もしかしたら俺以外はみんな知ってるかもしれない。あるところではそれが常識で、そんなことも知らない俺はとても馬鹿にされてしまうかもしれない。でもそこで、わからないって言ったら、一通り笑ったあときっと教えてくれるんだ。月が嗤う理由も。

 

花に水をやりながらの、そんな一人遊びの空想にももう慣れた。今日みたいに月が嗤う日はなんだか、良くないことが起きる。それは知ってるけど、その理由は空想の彼もついぞ教えてはくれなかった。だから庭先の手入れもそこそこに、おとなしく家に引きこもっているんだ。それに、月が大きいとおなかがすくから、そのための仔はもう捕まえている。おそらく痛めた左後ろ足を引きずって部屋の中を歩き回っている。俺の腹を満たすためにこの仔は食べてしまうけど、少しでも長い間生きられるほうがいいだろうから、まだ、限界まで、もう少し、我慢していようと思う。

 

カリカリと音を立てて戸をしきりにひっかいていた黒猫が慌てて飛びのく。それと同時に人影が入ってきた。迷子か?こんな遅くに?今日は、上手に村まで送っていく自信がないのに。

 

「こんばんは。いい夜だな、吸血鬼さん」

 

我が物顔で外套とリュックを脱いで、近くの椅子にかける。フードをとるとまだ幼さの残る顔がのぞいた。

「少し、頼みがあってきたんだ。…すぐ終わりますよ」

へたくそな作り笑いと目元のクマが、くたびれたブーツなんかより少年の疲労を表しているようだった。

 

「…だれかな」

「聞いてくれんなら、少し。昔話でも」

 

 

 

 

 

俺が住んでたのはここを降りたところにある街だ。あの大きな教会のある。満月の夜には夜通し讃美歌が歌われるようなけったいな教会のさ。そこで…気が付いたらそこにいたんだ。家族も家も何もなくて、なんとかやっすい工場のおじさんに拾ってもらって、その日その日生きていくのに足りるくらいの金を稼いでた。そんときは、まあなんで生きてんだろって。稼いだって今日のパンに消えるのに。でもちょっとずつ、ほんのちょっとずつだけど貯まったから、生まれや家族について少しだけ知りたいと思った。だから、おぼろげな記憶を頼りにその街を出て。昔いた村で大人として認められる18歳になったからな。ここの、すぐ隣の村。行ってみてすぐわかったよ。見覚えがあった。だから、声をかけて、わけを話して、そうしたら、…化け物、だとさ。その目を見て全部思い出した。そりゃ、あんな燃やした家にいたのに、今更生きて出るなんて、化け物以外のなんにでもない。また燃やされる前に逃げ帰ってしまったけど、もう一つ、思い出したよ。

 

俺を死にぞこないの化け物にしたのは、アンタだろう。

 

 

 

 

そう笑う少年は非常に涼やかだった。もう全部諦めたくて、でも諦められないからここに来ていて。もう何も期待していないくせに、だからこそ、何もかも捨てたからこそ、どうしようもなく縋っていた。

 

「なぁ、どうせなら、どうせ化け物にしたんなら、本物の化け物にしろよ」

 

身に付けていたナイフをいつの間にか首筋に滑らせる。薄汚れた柄とは反対に磨かれた鈍色が光る。

 

「ま、まってくれ!ちが…ちがうんだ、俺、いや、そんな…だって」

 

止めようにも、突然の訪問者に困惑しながらの透矢より、もう全部投げだしてしまった少年の方が一足早かった。白くて細い首から鮮血が舞う。甘い香りが鼻腔をついて、思わず喉を鳴らす。食べ損ねた黒猫は戸の開いた隙間から逃げていたようだった。それでも、ほかに、なにか、これをおさえるものを。口の端から唾液がこぼれる。自身に噛みつかない透矢に痺れを切らして少年は自らの傷口に指を浸す。痛みに顔をしかめながらも、血濡れた指で透矢の唇をなぞると、黄金色の瞳孔がきゅぅっと縮こまった。僅かな痛みの後、意識がすっと落ちていった。

 

 

次に目に入ったのは、腕の中でぐったりとしている少年だった。結局、彼がどこの誰かはわからないけど、でも、要するに俺のせいで故郷の人に除け者にされてしまった、みたいな。そういうことだったと思う。寝具で汗をかきながら深い呼吸をするかれに、ただごめん、ごめんとつぶやき続けた。体が吸血鬼化するには多くのエネルギーを必要とする。体がそれに耐えられなければ吸血鬼になることはなくそのまま死ぬだけだ。彼にとって、吸血鬼になって寂しい夜を過ごすことになるくらいなら、死んで全ての苦しみから解放されるのが良かったのか。別に俺が噛まなくたって、人間に認めてもらえないで苦しいんなら…。でも、彼の人生を苦しめていたのが俺なら、責任取ってこれから救わなきゃいけない。そう思いながらそのままベッドサイドで重いまぶたを閉じた。

 

 

 

月が嗤うのは、祝福だ。また新しい化け物が増えた。憎き化け物の生まれる日に、眉を寄せて月は嗤うのだ。