夢幾夜
レモネードの屋台があった。
赤、青、緑、紫、鮮やかな液体が店頭に並び、サングラスの陽気な主人が振舞っていく。ポップな音楽が流れ、パラソルのささっていないテーブルには人影であふれかえっていた。ふと、視線を感じてキャッチ―な客引きと目が合う。このレモネードは買っていいんだっけ?完璧な笑顔を前にきまりが悪くなってそそくさと逃げだした。
何も逃げる必要はなかったんじゃないか?頭の中のもう一人の自分が問う。自分はレモネードを買おうとしていたのか、祭りを漠然と眺めていたのか、はたまた。レモネードの屋台を見つけたあの瞬間に自分が存在し始めたようなうすら寒さのせいか、あの場から離れようとする足が止まってくれることはなかった。
追い立てられるように通りを抜けた先にも、また屋台。今度のはどこだかの地域の自治体が主催のようで、的当てやら輪投げやらを楽しむ小さい子供連れが多い。その場に一人で来た自分がまたいたたまれないような気持になった。なんで自分はこんなところにいるんだ?それに同調するように周りの人間全員が一瞬、こちらを一瞥した、気がした。
不安な問いかけに答えるように、思い出す。まるで頭の中に誰かがそう語りかけたかのように。そうだ、今日はお祭りの日だ。夏だから、お祭りに来ているんだ。そのことを思い出すと昼を抜いていた腹がくぅと鳴った。
特徴のない男が売っていたチーズハットグを口にする。味も食感も何もしない代わりについている棒がのどに刺さったらどうしようだとかそんな無益なことばかりが脳をよぎるのだ。そうやって気の滅入ることばかり。
気が付くと石畳の道を歩いている。日本庭園にありそうな、アーチを描いた眼鏡橋。意外と背の高い橋の真ん中から見下ろすと池沿いの屋台が賑わっていた。呼ばれたかのように振り返ればアクセサリーの屋台が目に留まる。駄菓子屋のおもちゃの宝石であり、高級ショップの石ころでもあるそれはやけに透矢の目を奪った。何に使う、だとか買ってどうする、だとかそんなことは微塵も浮かばない。吸い寄せられるように屋根に入った。
赩、蒼、金糸雀色、......
——直感だ。アンタが良いと直感できたもの。それでなければ意味がない。
そう怪しげな老婆に語り掛けられるまま、手にとったそれはいつのまにか指にぴったりとはまって取れなくなっている。
——天然のルベウスか、アンタにぴったりだよ。きっとこいつも……最後までアンタを応援してくれる。
その言葉の意味を問おうと顔を上げるともうそこには、何もなかった。屋台などあったはずもないとでもいうかのように、水辺からの冷たい風が透矢の頬とはまったままの石を撫でる。もう透矢には必要なくなってしまったから消えてしまったのだ。そのことを、それが世の理であるかのように理解させられていた。
透矢は橋からまた先ほどの風景を見下ろしていた。いや、これを先程の風景と言っていいのだろうか。建物は倒され、地は抉られ、池であったはずのものが川としてそこにたたずんでいた。どうしてこうなったんだっけ。そんな言葉がぼんやりと脳をかすめるが、透矢は知っていた。この災害を自分が止められなかった、ということだけを。無力感とやるせなさに思わずこぶしを握り締める。指を締め付けているままの金具についた石も力と共に輝きを失っていた。
——もう一度、やり直すか?
ハッと振り返るとなかったはずの声が聞こえる。あの時の老婆が屋台の奥から語りかけていた。
——かわいそうに、こいつじゃ……ルベウスにはアンタを救えなかった。
引き寄せられるようにまたその薄暗い屋根の中に入っていく。次なら、結末を知っている次なら、もしかしたら、。不健康な思考に心拍数は上がっていく。
——でも、別のこいつらなら?
自分を選べというかのように台の上の石たちはそれぞれ思い思いに煌きを見せつけてくる。
——ただし気を付けろ。アンタの直感に沿うものでなきゃ、こいつらは応えない。
さっき失敗したのは、あの時必要だったのは、最善を叶えられるのは。
透矢は橋からまた先ほどの風景を見下ろしていた。
また、まただ。どうして。何も変わらなかった。
——だから、言っただろう。こいつらはアンタの直感にしか応えない。アンタが正しいと思うことにしか、アンタがしたいと思うことにしか。
なあ、アンタは、ちゃぁんと直感でこいつを選んだか?
目深にかぶったフードで顔なんて見えないのに薄い唇が意地悪く歪められた気がした。
ああ、でも、そうか。たしかにこいつを選んだ時は……この状況を打開したいとしか、思ってなかった。……でも、俺が良いと思ったやつ、なんて、ずっと同じものしか選べないんじゃ
——どうせ人間なんてすぐに考えを変えるものだ、そうだろう?だから、少しでもいいと思えたら、思い込めたらいいんだよ。
思い込む……思い込めれば……、俺はこいつを直感でいいと思ってる?まあたしかに、そういう面がないこともない……か。
——海色のベリルか。”アンタ”がそう思って選んだなら、きっとうまくいくさ
その言葉を背に池に向かって走り出す。次は、次こそは。
これを見るの何度目だっただろう。決まりきったおんなじ動きで振り返る。
思考は定まらないのに手は意思に関係なく赩い石を手に取った。
——ああ、結局そうだろう、アンタを救うのはルベウスだった。ただ、天然の、本物のそれではなかったわけだ。
偽物の。何者かになろうとして、それと自分の区別がつかなくなっちまった赩い石。アンタにそっくりだ。石のために自らの直感を捻じ曲げすぎて、もう自分が何を考えているかもわからないんだろう。
そんなことない。そう口から出た言葉も俺が思ってそう言ったのか、それともこの石を持つのがふさわしいと考える”俺”の言葉なのか、そうやって持った疑問は誰のものなのか
落ちていく思考を繋ぎとめるように老婆はフードをゆっくりと下した。その、瞬間まで老婆だったはずのその人は日に焼けていない白い滑らかな肌と蒼い石のような瞳を覗かせる。
——ようこそ、こちら側へ。
俺もどうしてアンタがこんなに気になっているのか、この感情は俺のものなのか……全くどうして分からなくなっているところさ。
*海市蜃楼……実体や根拠などがなく、むなしくうつろなもののたとえ。また、現実性のない考えなどのたとえ。「蜃楼海市しんろうかいし」ともいう。
*赩……深い赤色、深紅色。
*ルベウス……ルビーのこと。天然のものと人工のものがあるが、人工のものが出回った当初「人工である」と記載する必要がなかったため、本物と区別がつかなくなってしまい本物の価値が暴落した歴史がある。
*ベリル……アクアマリンやエメラルドと呼ばれる鉱物種のこと。通常水色の物をアクアマリン、淡いグリーンの物をエメラルドと呼ぶ。