郷愁の約束 1

向こうには何があるのだろう。

線路を吹く夏風が彼の頬をざああと撫でた。乗客のいない列車が小さく見えなくなった頃、やっと駅舎の中に戻る。ずいぶんな田舎なものだから顔見知りの駅員は帽子をちゃんとかぶれ、と頭をぐりぐりしてくる。押さえつけられる心地がして嫌だと首を振るが、協議の結果渋々ひもを通して被ることとなった。麦わら帽子の裏側には”たまも きょうすけ”と油性ペンで書かれた布が縫い付けてある。

首から下げた水筒の麦茶を呷りながら一日二本しか列車の出ない駅舎を後にする。さてどこに行こうか。裏山で一人遊びをするにも飽きた。そうだ、おとなりのうめちゃんの家に遊びに行こう。あの娘は随分自分に甘いし、日がくれる前に帰ればバレやしない。遠くで鳴くセミの声をBGMに意気揚々と歩きだした。

隣と言っても自転車で行くより車を出したほうが速いような距離だ。子供の足にはずいぶんな散策。着くころにはびったりと濡らしてしまった額を腕で拭う羽目になった。立派な門を避けて勝手に庭に入り込み、縁側から呼ぶと和服の裾を抑えて迎えに来た。

「あぁきょうちゃん、暑かったでしょ。」

麦茶入れてあげるわ、と出されたグラスの隣に、空になった水筒も差し出す。うめちゃんは仕方ない子と笑ってそちらにもなみなみに注いでくれた。うめちゃんはこの時間、お琴の練習をしないといけない時間だからと諭すのを躱して、隣の部屋で大人しく本を読んで待つ。麦茶と共に出された煎餅のカスが本にはさまったような気がするけど、気のせいな気がする。疲れた体をそぉっと風鈴を潜り抜けた風が撫でる。ふわふわ、トントン。大きな掌に寝かしつけられるようで、目を閉じた。

 

曲がった背中を追いかけて坂を上っていく。先を歩く人物が何かをしきりに説いているが京介には何を言っているかわからなかった。何度も通ったことのある知らない道を、石を踏まないように気を付けながら一つ一つ進んでいく。中腹の開けたところに目的のそれはあった。一年に一度それをきれいにして、花を捧げなければならない。わざわざこの暑い時期にやる意味は分からないが、水をかけて、かたく絞った雑巾で拭いて。終わった後にのめるじゅーすが格別だったから、それにつられていたのかもしれない。やっと終わって、空に朱色が混ざってきたころ、おれをここまで連れてきたじいちゃんが口を開く。

「だから、恨まれるようなことはしちゃいかん。わかったか」

何のことかはさっぱりだったが、それを言ってはいけないような眼光、顔つきにウンと頷くしかなかった。帰る前にもう一度綺麗にした祠を見る。どこかで見たことあるような、それに名前を呼ばれ、慌てて返事をしながら飛び起きた。

 

そうだ、おれ、うめちゃんちで……。寝起きの頭が理解すると同時に夢で聞こえた怒鳴り声がまた聞こえる。おれだ、呼ばれてる。縁側から出て、入ってきた時と全く逆の順番で庭から出ると、じいちゃんとうめちゃんが何かを話しているところだった。はなしているなんてのんきなものではない、一方的にまくしたてられていた。

じいちゃんは町の人に嫌われている。じいちゃんが人を嫌いだからだ。挨拶をしても無視するし、目が合うと舌打ちをする。そんなだから普段は少し離れた山の中に家を持っているし、珍しく街に出てきてもこうやって遠巻きに眺められるだけだ。

そして、うめちゃんも遠巻きに見られるだけだ。うめちゃんの父親が偉い人だから、みんなゴマをするかおべっかを言うかばかりで、友達なんて言えるものはなかった。それに普段はうめちゃんも両家のお嬢さんといった風で誰かと衝突することなんてなかったからみんなびっくりしているのかもしれない。

話が収着するならそれまで待ちたい。怒られるのは嫌だし。待ちたいが、うめちゃんがああ言われ続けているのもかわいそうだから出ていくことにした。うめちゃんは背中を向けているからわからないが、じいちゃんはおれを見たらこうやってうるさくするのもやめてくれるはずだ。じいちゃんはおれには優しいから。

近くまで走っていくと途中でじいちゃんと目が合った。おれと目を合わせたじいちゃんは右手を挙げ、それを、左に振り落とした。

ぱぁんという音で世界が止まったようだった。

数秒後耳に喧騒が戻ってくる。女の泣いている声、流石にひどいと憤る声、恐ろしいと震える声。じいちゃんの膝をかがめたやさしい声。しっかりと言い聞かせるような、こびりつくような声。

「お前が、いうことを聞かないからこうなったんだ。いいか、お前のせいだぞ」

未だ衝撃で呆然としているおれの頭をいつも叱り終わった時にするようにポンとたたいて手を引く。自分がぶたれたわけでもないのに涙が出てきて、止まらなくなって、ごめんなさいと繰り返すだけの機械みたいになってしまった。