月が綺麗な日 1節

「は、は…っ」

 

普段は人気などない森の中、地を蹴る足音が一つ。しかしそのリズムは小気味良いものではなく、開いた口から漏れる息遣いは酷く苦しげだった。

うっそうと茂る枝葉の隙から時折、煌々と輝く月明かりが彼の頬を照らす。それを反射した汗は輪郭を伝って後ろに流れ落ちていった。

渇きが抑えられない

それは、体内から出て行ってばかりの水分のせいだけではなかった。地球に衛星が近づく今日みたいな日は酷く、渇く。それが何故かは知らないが、普段からこの土に足を付けていなければいけないという制約があるのだから、この星の動きに縛られるのも理解できる。

そんな思考にもやがかかったようにかすんでいく。普段こんなに走ることなんてないから、肺が酸素を求めて悲鳴を上げても、どうやって息を吸えばいいのかわからなくなってしまう。別に息吸わなくたって死ぬことはないのだけれど、それでも苦しいものは苦しい。

突然視界がまわる。大きく打った体が熱を持ち始める。どうやら足を取られて転んだらしい。腕をついても体が持ち上がらない。疲労感がどっと押し寄せる。はぁ、だめだ、噛みたくて仕方がない。あぁ、そうだ、あるじゃないか、ここに。

 

 

 

「おやおや」

 

口を大きく開け、牙を見せたときはこちらに気が付いたのかとも警戒したが、そのまま地面の彼は自分の腕に噛みついて気を失ったらしい。この手の行動は報告書にあった。確か、飢餓状態または錯乱状態の吸血鬼が行う。実験の記録では、自身を噛んだすべての被検体が気を失っていた。それが、血液が純潔すぎる故なのか、混ざりすぎている故なのかはいまだ調査中、と。とにかく自分の血を吸おうだなんて馬鹿な真似、目の前で見る日がこようとは。足で数度小突き、反応がないことを確かめてから、抱え上げる。

「これはいい落としものでした。」

 

鼻歌を歌いながら歩いていく。暗い森の中で一本の帰り道が見えているかのように、真っ直ぐ迷いなく。それは突然木の陰で煙に巻かれたように消え、鼻歌もいつからか聞こえなくなっていた。ただ、それと同じ讃美歌だけがどこかの教会から響いていた。

 

 

 

 

 

目を覚ますと、まず初めに濃い色の斜めにかけられた天井が目に入る。屋根裏の部屋のような空間。簡素だが清潔な布に寝かされていた。手をついて体を起こすと壁には大きな板。もともとは窓でもあったような造りだ。それにしても、ここは、どこだ。ドアの向こうに人の気配がないのを確認して、廊下に出る。ぱっと見た感じさほど広くは感じられない。あけ放たれた隣室の扉を横目に、とにかくここを出ようと、下に続く階段に足を延ばす。

降りた先は居住空間の様で、右手には椅子や棚が目に入る。正面には簡素なドアがあり、左手の小さな窓からは薄い月明かりが差し込んでいた。ひりつく日差しは感じられない。今はどうやら、夜だ。奥の部屋をのぞくと、ソファーにダイニング、そこそこ立派なキッチンもある。床も壁も、家具も木目調で統一されている。普通なら温かさを感じさせるその不規則な模様は、不気味さと冷たさを内包した目でこちらを見ていた。部屋の奥にもさらにドアがある。まずは手前のドアから、とドアノブに手をかけるとそっと手を重ねられた。

「っ………!!」

慌てて振り払いながらその手の主を睨みつけると、彼はパッと両手を顔の横にあげて危害を加えるつもりはありませんと嘯きヘラ、と笑った。

「お兄さん、どこへ行くおつもりですか?」

 

「…誰だ」「そしてここはどこだ、…目的は?」

 

じり、と後退しながら尋ねると背中に固い感触。それを見て、その笑っていない目のまま顎に手を当てて首をかしげる

「私は昨晩、行き倒れていた君を見つけて保護しただけですよ。」

だからそんなに睨まないでくださいな、とクスクス笑う。口も声も雰囲気も笑っているのにどうしてか笑っていると感じられない、どうも気味が悪い男だった。

 

「この辺りは夜は吸血鬼がわきますから。君もまだ本調子ではないでしょう?回復するまでぜひ休んでいってください。こう見えても私薬学の素養がありますので」

 

胡散臭い男だ。どの程度本気で言っているのか、つかみづらくて頭が痛くなる。隙をついて夜のうちに逃げ出してしまう方が賢明だろう。後ろ手でノブをつかんで嘲笑する。

 

「は、その吸血鬼がここに居るって言ったら?」

「存じ上げておりますよ」

「…は?」

「でも、ほかの吸血鬼から逃げていらっしゃるんでしょう」

「お前…どこまで知ってる……?」

「ふふ、鎌をかけてみただけです」

 

やられた。こちらが動揺して逃げ出すどころではなかった。そもそも、こいつはなんで知っていた?偶然で当てられることではないだろう。吸血鬼同士、争いあうことは一部を除いてほとんどない。

 

「けれど、できればこれからお兄さんのことを知りたいと思っているのですが。」

「…そんな誘いに乗ると思うか」

「ええ、なんせ君にはそれをするだけのメリットがある。」

「一つ目、教会と吸血鬼側の大まかな動きを知ることができること。二つ目、安全を確保できること。そして三つ目、君のお困りごとを解決しうること。」

指を三本立てて、細めた目はこちらの事情をすべて見透かしているようにも見えた。確かに俺は、今他の吸血鬼に会うわけにはいかない。でも…。

 

「現に今、おなかすいてないでしょう?」

 

首筋に指をツツツ、と滑らされ皮膚が粟立つ。慌てて振り払うも、確かに、言われてみれば、昨日はあんなに渇いていたのに。こいつの口ぶりからして意識のない間に誰かを噛んだということはないだろうし。今まで噛まずに衝動がなくなったことなんてなかった。

 

「私、少しばかり薬学に素養があるといったでしょう?」

「と言っても、まだ研究段階なんです。実験したくても吸血鬼なんてそう簡単につかまりませんし。だから、実験台になってくれません?」

 

思わず顔を引きつらせる。それで「はい」なんていうやついんのか?

「でも、お兄さんは私を頼るしかありませんよね?」

 

「まあでもいきなり薬漬けにするつもりはありませんよ。まずは元気になっていただかないと。ご飯できてますよ」

 

弧を描いた口元と冷たい湖の底のような目元があまりにアンバランスで、気持ち悪くて、ただただ抵抗する言葉を忘れてしまっていた。