月は綺麗だったろうか

それは、天に瞬く星よりも、漆黒に君臨する月よりも、焔々としたごみが、輝いていた日だった。

 

なんだか嫌な感じがした。

 

いつものことだ。とうにのみ終わったカップを軽くすすいで外套を深くかぶる。幸い陽は出ていないが、これは彼を彼と認識させるためのもの。ぱきり、枝を踏んだ音に驚いて兎が逃げるのを尻目に、心をざわつかせる予感に一直線に歩いていく。喧騒に近づいていくと、原因はすぐに分かった。三角屋根がごみのようにその炎の燃料になっていた。ただ集まっている村人たちが誰もそれを消火しようとしないこと。それだけが異常で何かの儀式のようにその家は囲まれていた。何があったのかは知らない。しかし、そんな各々武器を構えて、親の仇みたいな顔で見なくたっていいじゃないか。そっと気配を消して可哀そうな家の、裏のもう脆くなりかけている木の板を丁寧によけて、体を縮込めて入っていく。いくら命を脅かすことがないと知っていても纏っている布は簡単に燃え移ってしまうし、熱いものは熱い。

 

風通しがよくなっていく家の中に、やっぱり人がいた。いやな予感はたいてい、人が死ぬときのだ。奥に倒れた人間はもうピクリとも動かなかった。座り込んだ少年の涙はもう熱風ですっかり渇いてしまっていて、闖入者に対しても少し顔をあげるだけでそれ以上反応する気配はなかった。逃げ遅れた、というよりは逃げても無駄だった、といったところか。あんな囲まれていれば、家から出たところで捕まえられて、もしかしたら家と一緒に焼かれた方がましな目にあってしまうかもしれない。

 

透矢は人間が好きだった。人間の生活が奏でる温かい音が好きだった。手を取り合って思いを通わせあって食卓を囲んでいるのが好きだった。汗水流して作った作物が流されて、歯を食いしばって土をおこしてるのが好きだった。でも、人間は時折化け物から身を守るために、化け物よりもひどいことをする。それは、自分や大切な人を守るためだった。だったから、そのために必死になれる人間も好きだった。自分にはできないことを成し遂げてしまう人間が好きで、羨ましかった。でも、だからといって、こんな子がその犠牲になっていいものか。化け物と呼ばれて、その、恐ろしい目を向けるのは自分にだけでいいのに。

 

頬を伝う水分を拭いもせずに少年の体を抱えても、うんともすんとも言わなくて、それがまた悲しくて、荷物を一つ増やして来た道を帰っていった。

 

数日に一度しか使わない寝具に彼を寝かせて、袋からいくつかの粉を取ってくる。それをコップに入れて温かいお湯を入れて出すも、小動物のように警戒して、受け取ってはくれなかった。

 

「一応、この森で何年も住んでるんだ。怪我に効く葉っぱも知ってるよ。…これを飲んでくれないなら、そうだなぁ。はは、俺が君を噛んでしまうしかない。わかるだろう?吸血鬼なんだ。」

「それを飲んで元気になったら、近くの別の街に送ってやろうか。それか…君が望むなら元の村でもいい。あまりおすすめはしないんだけど」

「…なあ、返事してくれよ。このまま死ぬなんて、そんなのあんまりじゃないか。頼むよ。」

 

いくら声をかけても空色の瞳は睨みつけるばかりで、すっかり参ってしまった。それなら、せめて、人間のもとへ返してあげないと。傷は人間にも治せるはずだ。外套についてしまった煤を掃って被り、小柄な彼にも丁度いい布切れを見繕う。「歩けるかい」戸を引いて振り返ると、その小さな口は初めて開いた。「……食べないの」透矢は唐突に投げかけられたそれを理解するのに十分な時間を要した。痺れを切らした少年が彼の近くまで寄ってくるほどに。「俺が?君を?」頷きこそしないもの、その真っ直ぐの視線に否定の意は含まれていなかった。「こんな小さい子を食べる趣味はないよ」その言葉に見出したのが安心なのか不信なのか、それとも別の何かなのか判別がつかなかったが、年相応に見える問いかけに、ふわふわと踊る髪に笑みと共につい手を伸ばしてしまった。「おおきくなるんだぞ」その瞬間戸の小さな隙間に体躯を押し込んで飛び出してしまう。慌てて追おうとするが外はいつの間にかだいぶ日が昇っていて刺激に顔をしかめる。これなら、ほかの吸血鬼がいたとしても陰に戻っているはずだし、凶暴な動物も巣穴に帰っている頃だろう。森を降りていく小さな背中が見える。傷ついてなお、あんな小さな体に、まだあんなにエネルギーがあったなんて。やっぱり人間はすごいな。見送るのもそこそこに、いつもの小屋に戻る。そこにほんの少し残る自分と違うにおいに目を細めながら、手を付けられなかったコップを飲み干す。

 

「苦いな」

そう呟く彼はとてもそんな顔をしていなかった。