1.蜃気楼

夢幾夜

 

「あんたの存在があまりにも俺にとって都合がよくて、もしかしたら、夢だったんじゃないかなんて思うんだ。」

 

満天の寒空の下、ベンチに二人となりあい他愛ない言葉を繰り返していた。無難な話はもう話しつくしてしまって何も話すことがないようにも、まだまだ踏み切った話は何も話せていないようにも感じられて、ただ、隣のあんたの手に手を重ねて、指を絡めて、…そうできたらいくらか温かいだろうか。ままならない思いは寒さにかこつけてポケットにしまった。

 

相手の存在が夢なんじゃないかって、中学生みたいな恋人同士の淡い戯言。そんな台詞にふふ、と笑うのを感じる。頬が赤いのはきっと、この刺さるような寒さのせい。隣に座るのが精いっぱいで目も合わせられないものだから、彼のことは何も見えていなくて、ただそこから吐き出される白い吐息だけが隣にちゃんと彼がいることを証明していた。

 

「ばれちゃったか」

 

 

そう少しふざけて笑う彼の顔には表情がなかった。表情というか、細かいパーツが。つまりのっぺらぼうのような。その肌色のぬめっとしたおうとつは何も読み取れないのに確かに笑っていた。その尋常ではない人間の様子に翔湊は驚いて立ち上がる。その先ほどまで当然のように隣に座っていた相手は改めて見ると全然知らない人間だった。いくつか年上でぼんやりと髪を結っているようには見えるものの注視しようとすると途端に輪郭が溶けてしまう。

 

逃げなければ。

 

途端にその感情が大きな波になって翔湊を襲う。目の前の人間からだろうか。困惑して相手を見やるも彼は何も教えてはくれない。背後に足音が聞こえる。そうだ、これから逃げなければ!直感する。これに追いつかれれば、存在が、喰われる。正体なんかも何も知らないはずなのに、情報がポンポンと頭の中に沸いてくる。とにかく、逃げなければ。そう思うのにどうしてか足がすくんで動けない。自分が冷静なのか混乱しているのかもわからない。ただ、それの気配をすぐ間近に感じる。その大きな影に圧し潰されそうになる。見えないはずのそれの悪意だけがやけにはっきりと感じられて。

 

瞬間、体が大きく飛ばされる。堰を切ったように感情が体をめぐり、その勢いのまま無我夢中で足を動かした。ただその恐怖から一歩でも逃れられるように。”あれ”から庇って突き飛ばしてくれたあの人はどこか心配するような、それでいて信頼しているような表情をして一言。「逃げてくれ」そう彼の口は確実に動いたはずなのに、聞こえてきたのは違う音だった。しかしそんな些末なことに意識を割く余裕もないまま、ただ可能な限り早く足を動かし続けた。

 

どれくらい走っただろうか。気が付いたら一つの建物の前にいた。ここまでくればもう追ってこないだろうか、そう思い戸に手をかける。ビルの自動ドアを手動で開け、目の前にあるエレベーターのボタンを押す。しかし、いつまでたってもエレベーターが下りてくる様子はなく、よく見ると押したはずのボタンは光っていなかった。故障中かとも思ったが、なぜか自分が押しても反応しないのだと確信する。裏にまわり少しだけ開いたドアに体を滑り込ませ非常階段を上った。

 

ビルの2階はなぜか見慣れた教室だった。窓から見える景色もいつも通り。休み時間、束の間の喧騒の中自分もいつの間にか制服に着替えていて戸惑いながらも自分の席につこうとする。しかし、そこにだけ、机と椅子がない。周りを見てもそのことに違和感を覚えている人間はいないようだった。まるで、自分が存在しないのが当然かのような。呆然とその不自然に空いたスペースに立ち尽くすとチャイムの音と共に教師が入ってきた。絶対に目に入るはずなのに何も苦言を呈されない。誰も自分の存在を気にせずいつも通り朝のホームルームが始まる。

 

阿部、遠藤、岡野…神崎……

呼ばれた者たちはそれぞれ眠たそうに、けだるげに、または愛想良く返事をしていく。自分の名が呼ばれないその空間にこれ以上いるのがいたたまれなくなって、教室を飛び出した。廊下を走って階段を駆け上がる。上って上って、足が重くなってきたころやっと見えた扉。見覚えのある扉。振り返ると先ほどまでの階段は消えて家の前の風景が広がっていた。

 

その空間に入ってから気が付く。腹の底が重い気がする。そうだ、ここでは誰にも認識されない。これなら”あれ”に喰われた方がましだった。それなら確実に捕食対象として認識される。ここに居たらだめになってしまう。見てもらえない。外に飛び出ても周りを歩いている人は誰も俺が見えてないようだ。いつものように、チンピラに喧嘩を売ってもそこには何もないかのように通り過ぎられてしまう。体が透けていく。あぁ、誰が言っていたんだったか。何をして人間個人をそれとして定義するか——それは、世界とのかかわりによってである。

 

そうかじゃあ、それなら誰にも認識されない俺はこのまま透明になって消えていくんだ。妙に冷静な心地でもう見えなくなった自分の手を見つめていた。すぅっと視点が上に上がっていき、そのまま消えていく自分の全身を目を閉じたまま上から眺めていた。

最後、手首に違和感を覚えると同時に耳元で「待ってる」と。

 

そうだ、これ、あの人が言っていた。おんなじ声だ。掴まれた手を逆に掴みなおさなければ!と目を開けるといつもの天井。なんか変な夢を見た気がする。気持ち悪い汗をかいていて、夢の内容を思い出そうとしても頭がぼんやりして思い出せない。…でも別に夢は、夢だ。記憶を整理しているだけと言うし、何も気にすることはない。もぞもぞと布団を抜け出して何事もなかったように支度を始めた。

 

 

 

 いつものように学校で過ごして、駅に向かう。変な夢を見たせいだろうか、なんだか疲れていて本日何度目かのため息をつきながら日の沈みそうな道を歩いていく。ドン、と肩がぶつかり言いがかりをつけられる。まあいつものことだし。小さいからって舐められてんのは癪だけど、無視されるよりはましだ。

 

けだるげにポケットから手を出して、臨戦態勢に入ろうとすると後ろから延びてきた手に掴まれる。

 

どうしてか手首のそれを振り払えなかった。