庭の草木から落ちる水滴と車輪の転がる音をバックに足元の露を払う。天には低い雲が立ち込めて何となく薄暗い中、開けられたドアを擦り抜ける。
なんとなく、ただなんとなく暗い日だなと、そう思っただけだった。
ことん
ローテーブルに置かれた暗い色のボトルにゆったりとした照明が鈍く反射する。
無駄に高いばかりのこれも付き合いで買わざるを得なかった、と短い息も吐きだしてしまう。味が違うのはわかるが、だからと言ってそれがいいかはよくわからなかった。
今日の”お話”では全然収穫がなかったし、天気もずっと降ったりやんだり、新しい夜会の招待状も来ていたし。湿って重くなった外出着をするすると脱がされながら何度目かわからない嘆息を漏らした。
「お加減、すぐれないのですか」
「そういうわけじゃないけど。……今日もらったのあけてしまおうかなあ」
「赤ですか」
「初物らしいよ」
「もうそんな時期ですね」
「うん、だから軽いのが良いな」
ワインに合うリクエストをしながらソファに腰を下ろせば、用意してきますねと足音が遠ざかっていった。
受け取った書類を見て結局最初から今日の”お話”が徒労に終わるはずだったことを知る。誰か別の人間が噛んでるなこれは。そりゃあこちらにマージンが入ってこないわけだ。骨折り損のくたびれ儲け。ああ、もうなんだか面倒くさいな。
「……、デイヴィッド様。…………こちらにご用意しますか?」
いつの間にか背後に来ていたモースにそうだね、と書類をまとめて押し付ける。
「僕もうここから動かないもん」
背もたれに勢いよくもたれかかればさかさまに見える従者は少し眉を下げて笑った。
からからと押してきたワゴンからはほっこりとしたいい匂いが漂ってくる。高い食材への感動はいまだ知らないが、この料理たちは好きだった。それが食材が良いのか、この若い料理人の腕がいいのかなどと考えている間は彼の地道な努力など知らないのだが。
並べられようとするグラスを直接受け取り、これもうひとつ、と笑うと彼は少し不思議そうな顔で取りにさがる。その間にまだテーブルに乗らない皿をガシャガシャと並べて。そうすると仕事を取られた従者は慌てて戻ってくるから愉快なものだ。さながら怒っているというような口調で、でも声色だって表情だってひとつも嫌だと主張してこないから、思わずクスリと笑ってしまうのだ。そんな素直な彼もだんだんと素直に言うことを聞くばかりではなくなってくる。昔は三回まわってワンとしていたのに、最近ではお仕事は終わったのですか、なんて。
にゃーでもいいよ、と言えば鳴いたが。
グラスを軽く掲げて催促すれば、やっぱり素直で期待には応えたい従者はとやかく言うのを止め、淡いルビー色をグラスの中にたぷたぷと満たしていく。
「乾杯」
フルーティーな香りを楽しむのもそこそこにそれを啜れば、遠慮がちに隣に座る彼は真似するように薄い口を割った。その様子に満足し、主人好みにまとめられた食事に腕を伸ばしながら、なんてことない、暗いはずだった日の顛末を話して聞かせる。いつの間にかグラスに映る彼は随分上機嫌だった。
確かに強い酒を飲ませる機会はそうなかった。けれどワインなんて皆飲んでいるもので、最後には皆泥酔しているもので……
「早いな」
思わずつぶやくと普段よりいくつかトーンの上がった肯定が返ってくる。苦笑交じりに「もうやめとく?」と聞くと元気よく「はあい」とは言うもののグラスを離す気配は一向になかった。やめないの?ともやめるの?ときいても同じようににこにこと返事をよこすものだから。グラスを揺らす指の上から握りこんで「これちょうだい?」と言ってもヘラ…と笑うばかりだ。まったく仕方がないので、彼のを傾け勝手に頂く。突然透明になったそれに不思議そうに首をかしげるも、わかっているのかいないのかえへへ…と頭を肩に寄せてくる。
そんな胡乱な相槌を肴に杯を呷り、雲の隙間から覗く月も傾いていった。
ボトルも空き、喋る話題が尽きるなんてことはないのだが単調な返事を聞くのにも飽きてくる。彼が持っていたはずのグラスはいつの間にか毛の長い敷物に転がっていた。
「もうねようねぇ」
人差し指をほんのりと紅く色づいている頬に滑らせ、やわやわと揉むと、力の抜けたようないつもと違う笑みをさらす。この表情は、見たことがあっただろうか。何となく薄暗いような、重暗い気分にもなるものだ。従者のことは、自分の物のことは自分が全部知っていなければならない。
酔いが回ったか、夜が更けたからか瞼はもうずいぶん重くなっていた。
「きょうは、さむいことにする?」
そう言われたなら、モースはもうどうしようもなかった。寒いと言われれば少しでも温かい寝間着と布団をもち、話を聞けと言われたら寝具の隣に椅子を並べ、……寒いことにすると言われれば温かい腕の中で眠れない夜を過ごす。
のしかかる腕の重さに、肌で感じれるほどの息遣いに、ひっくり返りそうなまでの鼓動を押し殺す。そうすると顔を見てもわかるほどに体温が上がるから、だからこそ寝具の中まで招き入れられているのだ。
いつかお役御免になってしまうのではないか。勿論、今の体温が年若き故だということも知っている。貴方への熱は消えないのに。
この鼓動はバレてはいけないのに少しでも近くに居たかった。酒臭い呼気を額に浴びながらおとなしくくるまる。
ああ、この時がずっと、ずっと続けばいいのに。
髪を撫でつける手つきに感じ入るように目を閉じた。
「申し訳ございません…………!」
かなり、なんだ……そう、やってしまった。
目が覚めると、いつもはもっと深くまどろんでいるはずの主人が頬をつついて「おはよう」と。普段ここで寝入ってしまうことなどないから油断していた。まだ、新聞配達を迎え入れなければならないほどの時間でもないが、まさか、主人より遅く起きてしまうなんて。
しきりに謝っている髪を掬い遊びながらなんとなく眠たそうにする主人に、布団をかけなおすと、彼は素直に目を伏せた。
「たまになら、いいかもね」
優しくでもなく楽しそうにでもなく、微笑む意図はやはりよくわからなかった。