月が綺麗な日 2節

まあまあ、と背を押されて椅子に座らせられる。机の上には湯気の立つスープにパン。大ぶりな野菜が入っていてコンソメの香りもいい。こんな場面じゃなかったら、非常に食欲をそそられるべきだろう。そう、隣のこの男がいなければ。「さあさあ、どうぞ」なんてにこにこしながら言うが、そんな怪しいもの食べるわけないだろ。食べるまでここから離れないつもりなのか…?

「あ、毒見でもさせておきますか?」

口を開いて人差し指で自身を指すが、別にこいつに食べさせたからと言って安全とは限らないことはわかっている。人間には効果のない薬が入っているのかもしれないし、そもそもこいつは人間なのか?…忌血の影響を受けていないようだし、特有のするどい犬歯もないから、吸血鬼ではないようだが。

観念して匙ですくい上げる。こんなところまで統一された木目調は一周まわって気持ち悪い。意図の知れない視線に居心地の悪さを感じながら、口に運ぶと当たり障りのない味がした。溶けかけた芋、芯の残る根菜。耐えきれずちらりと視線をやるとどこかそわそわとしながらこちらを窺っているようだった。なんだ、やっぱり薬でも入れてたのか。

ただ、それがあろうがなかろうが、できることがないのは確かだしどうせなら、わずかな可能性にかけたほうが賢明かもしれない…いや、でもこいつの言いなりになるのは癪だ。そう思い当たり止まる手は、早く食べるようせっつかれる。

「…おいしくないですか?」

「…別に」

別に、おいしくはない。けど、なんか、…人間みたいに笑うなよ。気の狂った研究者じゃないのかよ、お前は…くそ、調子狂う。

 

食事(薬の投与か?)を見届けた後、ガタガタ騒がしい音を立てて食器と泡と格闘しているようだった。手伝う義理なんかはないが、拘束もされてないのに逃げ出す気にもならない。言うなれば満腹感。この体はこんなスープ一杯とパンで満たされるわけがないのに。程よい眠気を伴っているのが、わけのわからない薬を飲まされた証拠か。その思考が頬への刺激で中断される。冷たい。さっきまで水を触っていたから。体温上昇、ですか。とつぶやくそれを、払い除ける。

「何飲ませたんだよ」

「いやですね、変なものは入れてませんよ」

「どうだか」

「疲れているから。それでおなかいっぱいになって眠たくなっちゃったんじゃないですか」

温かいものも飲みましたし。とにこにこしたまま、また首に手を伸ばしてくる。腕をあげるのも億劫になって緩く首を振って抵抗を示すもそれに構うような相手ではないのだろう。

それに、強ち否定もできない。普段はあまり睡眠を必要としないが、体に蓄積されたダメージが一定程度を超えると睡眠を通じて修復しようとする。それに、温かいものを飲んだのは、久しぶりだったかもしれない。

問答も面倒になって適当に呻いて返事していると、彼は奥の戸の向こうに消えていった。立ち上がるとふらついて、ついソファの背もたれに縋る。立たない膝をかばうように、背伝いに回り込んで座面に体を投げ込む。体がだるい、気がする。丁度戻ってきた彼は慌てたように本をローテーブルに放り、何やら声をかけてくる、が、意味を持った言葉として耳に入ってこない。心配したようなさざ波が、覗き込んできて、それで。力を入れようとしても一度くっついたまぶたは離れようとはしなかった。


「ねぇ、ちょっと…!」

スイッチをおとすように急に動かなくなる。僅かな抵抗だったのかソファに突っ張っていた腕もふっと力が抜けて布張りに沈む。軽く揺さぶっても、眉根を寄せて唸ることすらしない。掴んだ手首がとくとくと冷たくて、その振動が指を伝って腕を伝って心臓に。ちがう、逆だ。ばくばくと、鳴っていたのは自分で。彼の手首はうんともすんとも言ってはいなかった。静かな爆音の中、すうすうと、吸い寄せられるように口元に耳を寄せる。———脈はないくせに、呼吸は一丁前にするのか。思わず脱力した腕を遠慮なしに彼の上に投げ出す。どうせ反応は返ってこないんだ。今更首筋をすべり落ちる汗に気が付いて、自分の動揺っぷりにすら動揺する。まあ、そりゃあだって、人殺しにはなりたくはないですから。あれ、吸血鬼ってもう死んでるんでしたっけ。ついでとばかりに胸に耳を寄せれば止まった時計に体温が奪われるなんとも気持ちの悪い感覚がした。

 

なんだかどっと疲れてしまった。一日に二回も人間を抱えて階段を上るだなんて正気の沙汰でもないし自分からそこに潜り込んだのだから今日はもうそこでいいだろう。寝室から一番マシな布を引っ張ってきてかけてやる。……自分で言うのもなんだが警戒もせず食べてしまうなんて、よっぽど守られた環境で過ごしたか、あるいは。薬が盛られていても、万が一のことがあっても、いい、と。

実験体にするつもりはあるけれど、君を傷つけるつもりはないんですよ、なんて。どの口がと言われてしまいそうだが、ほんとうに。先程よりも気持ち赤みがさした頬にかかる髪を払う。脈もないのに血色はあるのか、意味が分からない。でもそんな意味の分からない存在に薬を作ろうだなんて自分も大概だ。

棚から乱雑に積まれている紙袋の一つを引っ張り出す。バタバタとなる風に押し込まれた夕日の残り香に目を細めながら窓の外の木箱に屑を投げ入れる。急ぐようしたためた便箋を一緒にかけておけば、おそらく、明日には着くだろう。

はあ。とりあえず片はついたが。なんだかわからないがどこか面白くなくて、息をついてソファを占拠する塊を人差し指でつつく。

 

「私まだ、君の名前も聞いていないのですが」