雛の飛び立ち

「日本に行きたいんだ。」

いきなり出てきた国名に目を瞬かせる。言ったのは姉。言われたのは叔父。

 

勿論どこにあるかくらいは知っているけど、だって、そんな、急に

 

「勉強したいことがあるから、日本の大学に行かせてくれ。そのためにも色々調べた。」

「詳しく聞かせておくれ」

 

私を置いてきぼりに二人は話を進めてしまう。確かに私に話したってできることはないけど。

だって、あんな島国、飛行機に何時間も載らないと帰ってこれないじゃないか。別に他の国に進学すること自体はおかしなことじゃない。ただ、通勤で行けるような隣国とは違うのだ。どうしてそこじゃないといけないのか。

 

「暮らしていける算段はあるのかい」

「寮がある。日本の奨学金を借りれば、そこの料金も学費もやっていける。あとはバイトすれば生活費も何とかなる。受験料だとか、受験しに行く旅費を出してほしいんだ。」

「いくらだい?」

「え?」

「寮の費用は、奨学金はいくら借りれて、どれくらいの期間をかけてどれくらいずつ返していくのか。バイトは週に何日何時間程度、時給はいくら程度の予定で、いくら稼げるのか。生活費は何にいくらかかるのか。例えば食費、日用品、遊びに行くお金も必要だろうし、学校に通うのに通学費はいるかな。あとは電気代とかの公共料金。ほかに、この国とは違う日本で特別かかる料金は?」

う、と言葉を詰まらせる。

「そこまでは…その、まだ、です。」

うん、と優しい目に戻って言う。

「その考えを否定するつもりはないよ。ただ、『なんとかなる。』というのはだいたいどうにもならないことだからね。だから、もう少し調べておいで。私も調べてみるよ。話してくれてありがとう。」

 

待ってくれ。そんな勝手に、話を終わらせないでくれ。

だって

「じゃあ姉さんはいつ帰ってくるんだ…?」

出そうと思ってた声の数倍細い声が出てしまった。

「そんな遠いところに行って、いつ帰ってくるんだ?どれくらい、というか、大学の四年間が終わったらこっちに帰ってくるんだろう?そもそもなんでそんなところに行く必要があるんだ?この近くじゃダメなのか?」

なんで離れてしまうんだ…?

「ルイ」

その言葉は彼の制止にかき消された。滅多にない、少し強い声。いつものたしなめる程度のものとは違う言い方。

 

「私は、君が自分のことしか考えずに人の目標を応援できない人間だとは思いたくないよ。」

優しい、優しい、つくられたような声だった。

 

「でも、だって…」

溢れる思いはあふれ出して頬を濡らす。

「…姉さんに会えなくなってしまうのは…やだ」

悔しくて、でも自分が不甲斐なくて、唇をかみしめることしかできない。姉さんがやりたいことをやるのは素敵なことだけど、わかってるけど、でも。

「ごめんな」

なんで笑うんだ。そんな情けないことを言うな、とでも叱ってくれ。その方が幾分もましだったのに。

「姉さんのバカ!」

 

ああ、馬鹿は自分なのに。

 

 

 

 

自室の枕を濡らすうちに、冷静になってきた。

あんな情けなくて恥ずかしいこと。彼の言った通り自分よがりで否定してしまったこと。謝りに行かなくては。でも…

行っては欲しくない。

素直に彼女の夢を応援できる気がしない。どうかその大学に落ちてくれ。そして地元のところに通ってくれ、と。我ながらひどい呪いだ。でも願わずにはいられない。この気持ちに折り合いを付けなくては、きっと話もできない。また、こんどこそ、ひどいことを言ってしまう気がする。だから、遠慮がちに響くノックの音は無視して、ベッドにこもり続けた。

 

泣いていたこともあってか、疲れて寝てしまったらしい。水分が足りないと訴える頭痛に眉根を寄せながら、扉を開く。先ほどのノックの主はもういない。どれくらい寝ていたかはわからないが、さすがに諦めたらしい。

 

ダイニングの電気をつけて、水を取り出すと後ろに人の気配がした。

「まだ起きていたのかい。」

素直に先ほどまで寝ていた、と返せばなんてことない相槌を打たれる。彼は私が水を飲み終わるのを待って、声をかける。

「少し、来てごらん」

そういってついて行くと、彼の肩越しに見えるのは姉の自室だった。彼は一度振り返り人差し指を立てると、ノックをした。返事が返ってこないのに開けようとする手を慌てて止めようとするが、いいから、と制止されてしまう。

部屋の電気は煌々とついていて、机に向かう後姿があった。ただ、突っ伏してしまっていたが。

「最近は、よくこうなっているんだ。」という彼をおいて、彼女のもとに向かう。その手元には、書きかけのノート、シャープペン、消しゴム、たくさんの勉強道具が置かれていた。意外と整頓するタイプの彼女にしては珍しい。俗にいう寝落ちだろう。

「ごめん、ねえさん」

そう、こんなに姉さんは頑張っているのに、私はどうして応援してあげられなかったんだろう。さっきせっかく補充したのに、また目から水分が抜けていく。

 

「私、ちゃんと、姉さんが起きたらごめんって言う。ちゃんと、応援する…!」ぐし、と目元をこすると唯一聞いていた彼は頭にぽん、と手を置いてくれた。