もどかしい体温

「………………ここ、触ってもいい?」

「ん…」

息も絶え絶えに何とか首を振って意思表示をする。はじめてしたときもそうだったが、彼はすごくすごく丁寧に、そうやりすぎなほどに。ゆっくりと指を進める。GOの合図が出るまでは決して動かない。

交際を始めてからしばらくして、”そういうこと”もするのだろうかと。調べてから恐る恐る自分の体をいじってみたこともある。その時じゃあるまいしもう自分で準備もスムーズにできるのだから、そこまで気を使われなくてもいいと思う。なのに彼はいちいち生娘にするかのようにお伺いを立ててきて。

 

「触っていい?」

「キスしていい?」

 

じれったい。少しでも嫌がるようなそぶりを見せればすぐにやめてしまう。別に嫌がっているわけではないのだけれども、いくら何でも恥じらいぐらい持ち合わせている。彼が自分のことを何と思っているのかは知らないが、素直に触ってほしいだのナニしてほしいだの言えるほどにはまだ慣れていないのだ。だから蚊の鳴くようなン、という声を出すだけで精いっぱいで。ただ想定していたよりもずっとか細い声に相手が聞こえているのか心配になって、でもその許可をわざわざ言葉にするほどの度胸もないから、いつも一途に首を縦に振る。

 

それに、と腹の奥に意識を向ける。ここまで許しているのだから今更拒否することなんてあるだろうか。もうすべて、お前のものなんだから、好きにすればいいのに。

 

後ろから延びる彼の手が腹をかすめて胸の突起へのびる。人差し指と親指でつまんで、なぞって、こすって。開いたままの口から吐息が漏れる。目を閉じるとそこばかりに意識が行く。なんもない胸なんか触って楽しいのか…?

「動くぞ」

「ン」

ゆっくりとした抽挿に合わせてつままれたそれも引っ張られる。ゆっくり息を吐いて侵入を受け入れる。それを何度か繰り返すも、彼はすっかり抜いてしまう。

「やっぱ顔見てシたい」

肩で短く息を吐く。少しだるい体を反すと飛び込んでくる照明に思わず目を細める。汗の滑る首筋に狙いを定めてすぐに目を閉じてしまおう。伸ばした両手で引き寄せながら耳元に落とす。

「おいで」

わがままな子だ。もともとこの体勢を提案したのは彼だというのに。でも、人に甘えるのが苦手な彼が自分にわがままを言うのは、悪くなかった。その誘導に従って近づいた彼は首元にチクチクと痛みを残しながら口先でなぞるように顔を下ろしていった。

こちらの余裕ぶった態度に乗じたのか、はたまた意趣返しのつもりであろうか、吐息がかかる距離でいたずらするときのような笑みを浮かべて問う。

「舐めていい?」

じっとりと濡れた金髪に指を遊ばせて、ンとひとつ鳴く。

「いいよ。…舐めて。」

初めはそっと舌先を這わせて。次第に遠慮なく突起を抉るように押しつぶしてくる。手持無沙汰なもう片側は左手に弄られていた。鼻先が皮膚に触れるのも構わず舌を伸ばしくる姿に愛着を覚える。何も出てきやしないのに。好きなんかな、こういうの。

 

それから。決して生でいれない真面目な彼のおかげで掻き出す手間も省け悠々と湯船につかっていると、ノックが響いた。もちろん「入ってもいいか」とお伺いを伴って。

「あ、ああ、いいぞ!」

最中よりは落ち着いてるから、いつも通り返事しようとしたけど、結局変に声がひっくり返ってしまった。既に洗い終わってしまっていたので手持無沙汰で金髪を滑る指先を目で追う。片手が湯を掬い勢いよく泡が流れ、短い髪の先からは絶え間なく水滴がこぼれる。水も滴るなんとやらとはよく言ったものだ。その水滴さえ落ち行くのがもったいなく感じてしまうほどなのだから。次いでその指先は肌を滑る。白くて細いけど薄くはない腹。そりゃそうだ。大の男一人抱えられるほどの筋肉はついているのだから。その指が首筋のあたりまで滑って、やっと、気が付く。ぼんやりと指先を追っていたのを空色の瞳が捕える。みてたの、バレたよな。ごまかすように視線を落とす。顔に火が集まるのを隠すように意識を別に向けようとして、失敗する。それは先ほどまで自らの腹の奥を圧迫していたもの。この男に抱かれていたのだ、という事実を否応がなく認識させられて、もう為す術がなかった。洗い終わった長髪を高くまとめ上げていることをこれほど後悔したときはなかった。…絶対ばれた。

向かい合う湯船の中でも、そう。安いアパートの狭い浴室で擦れる足にさえ言葉を失ってしまって。一足先に退室する。きっと余りの長湯にのぼせてしまったんだ、きっとそう。

 

手入れに時間のかかる髪を乾かしていると、ある程度水気のきった彼がドライヤーの順番待ちに隣に並んできた。自分のを乾かすのもそこそこにドライヤーを向けてやると素直に目を閉じて頭をよこしてくる。時折熱くないかと声をかけるも返ってくるのは聞こえているのか怪しい返事のみ。こんなに近くにいるのに、声の届かないもどかしい空間。あらかた乾かして、弱くて冷たい風を送りながら問う。

「翔湊、ちゃんと髪乾かしてたんだな。」

前は自然乾燥などと言ってそんなこと頓着してなかったような気がする。

「寝るとき、あんたが冷たいだろ。」

そういうことをさもなにもないかのように言うから。すっかり冷まされた短髪をいつまでも指で梳いていた。

 

癖はないけど長さの分乾かすのに時間がかかる自分の髪を乾かし始めると、「俺にやらせて」と。やらせてという割にはガツガツ来ない。NOと言えば、わかったとすぐにでも立ち上がりそうな彼にドライヤーを渡すと少しだけ頬を緩ませて後ろに回った。ようにも、見えた。自分でやるときは面倒で腕を高くまで上げないせいかよく熱くなりすぎてしまうが、彼はそんなことなかった。おそらく気を使っているんだろう。普段よりだいぶ弱く感じる風と髪を梳く指先の体温。でも聞こえるのは排気音だけ。こんな時なら言えるかもしれない。”そういう”意味を持ってから、うまく口から滑り出てくれなくなった言葉。言うぞって思ってたくさん深呼吸しないといけなくなった言葉。この風に乗せてなら素直に言えるかもしれない。

 

「すき…え?」

「あつ…」

 

先程まで支配していたはずの排気音はすっかり鳴りを潜め、そこにはただ静寂だけが宙に浮いていた。

「熱くないかって、聞こうと思って…思ったん、だけど、」

髪にゆるく指を通したままで頬を撫でられる。

「もう一回言ってほしい」

 

笑ってるのだろう、きっと。いつしかのように目を細めて、愛おしそうに。だけど振り向くことはできなかった。振り向いたら、自分の表情もバレてしまうから。

「ヤ、…」

次に紡ぐ言葉も見つけられないまま口の形だけを無意味に変えていた。そんなことも口に出せない自分にも、困ったものだ。恥なんて今更。決意と共にこくりと喉を鳴らし乾いた口を開く

「そうか」

彼の言葉の後にまたうるさいくらいの排気音が流れ始める。あ、いや、違うのに。今言おうと思って。しかし先ほどの言葉を否定ととらえられたのだろう。そのことについて彼が言及してくることはない。なかったかのようにまた彼の指先を踊る髪はもっとずっと冷たくなっているような気がした。今度こそ伝えなければならない言葉は風がどこかに運んでしまったようだった。

 

乾いた髪を携え布団にもぐる。半分めくって待つと、胸に飛び込んでくるから腕をぱたんとおろして閉じ込める。そうして、二人分の体温にまどろんで。程よい疲労感と彼の掌の規則的な振動に瞼の裏でふわふわとした気持ちになる。

「さっきな、言おうとしたの」

「ウン」

「もっかい言ってって言ってたやつ」

「ウン」

「好きだなって」

「…ウン」

「それだけ」

そのあと感じた額への柔らかい感触は何だったか。すっかり夢の世界に旅立ってしまっていた透矢にはうかがい知れないことであった。