バースデイ

小さな手と手を握りしめて、大きな世界に生まれ落ちた。

 

「Hadu お前の名前だよ。そう、元気いっぱいに、負けないように、真っ直ぐ、育つんだよ。」

 

一つ、名前をもらった。あたしだけの、生まれて初めての、プレゼント。

 

 温かい腕に包まれて、手づから栄養を与えられる。

手を離されて、地に足を付ける。

勢い良く手でつかんで口元を汚しながら咀嚼する。

 

「ふぁーてぃ」「むてぃ」

 そういうと彼らは目を見合わせて、そして、とてもうれしそうに笑う。

 

妹が生まれた。父親も母親もそちらにかかりきりになって、少しつまらなかったけど。初めて会った時、母親の腕に抱かれた彼女の手をそっと取った。彼女は差し出された指を力いっぱい握っていて。この小さな命を、守りたいって思った。

 

隠れて…そうだ、確かチョコレートを食べていて。妹が私にも分けてというから、内緒だよ、と半分に割って渡した。そのあと、彼女の口元についた食べかすで親にバレたのに、怒られたのはあたしだけだった。

「ルイはまだわからないでしょう。」「おねえちゃんは妹の見本にならないといけないのよ。」

おねえちゃんだからって。なんで。どうして。好きでおねえちゃんになったわけじゃないのに。

どうにも納得がいかなくて布団で泣き疲れて眠った夜もあった。

 

そうやって、優しさも喜びも愛情も、全部食べて。

少しずつ大きくなる。

 

そんな彼らの愛情、正しさ。あの箱庭にあったものだけが溢れる世界じゃないけど。でも。真っ直ぐ、前を向いて行こう。妹の見本になれる姉として、彼らの教えを正しいと誇れるような人間として。

 

そう、だって。悲しさだけが溢れる世界でもないから。あの箱庭の外にだって、優しさも友情も温かい光をくれる存在はたくさんいるから。だから、真っ直ぐ、前を見据えて笑顔を作って生きていくんだ。

 

そんな正しくて暖かい箱庭が消えるのは、一瞬だった。アウトバーンの真ん中の車線を軽快な音楽とともに走っていた鉄の塊は、右側からのトラックに気づかず、そのまま本当にただの鉄の塊になった。大きな音と衝撃のあとに、恐ろしいほどの静寂に息が詰まる。一つ遅れて妹の混乱、動揺といった色の感じられる泣き声が響き渡る。ただその時は、大丈夫、大丈夫だよ、と意味のない言葉を繰り返すことしかできなかった。

これは後から気付いたことだが、自動車の座席で二番目に死亡率の高い、後部座席の右側に座っていたあたしが生きていたのは、父親がハンドルを切らなかったかららしい。事故の現場で左にハンドルを切ることは本能的な行動だが、彼がそうしなかったのは、どんな理由があってか。今となっては答えを知ることはもうできない。

 

元から親戚同士の集まりはいい方ではなかった。暗い色のワンピースを着せられ、数度顔を合わせたことのあるだけの大人に囲まれて、何度も隣の妹の手を握りなおした。もう頼れる大人はいないから、あたしが妹だけは守って生きていかなきゃいけないんだって。

 

詳しくは知らないが、大人たちがあたしたちの処遇を話し合っていたようだった。父からも母からも聞いたことのなかった、その家の銀髪嫌いのことも初めて知った。だから彼らはあたしたちをここに連れてきたがらなかったのか。少し、気持ちが悪い笑い方をした大人に部屋に連れてこられた後、寝るよう指示された。夜、トイレに起きたとき聞こえてきたのは、なぜ引き取る必要があるのか、施設にでも入れておけばいい。金色の方だけなら引き取ってやってもいいが。自分が、歓迎されていないことだけはわかった。結局、アタシと同じ、銀髪の叔父。彼に引き取られることとなった。目も合わせてくれない不愛想な人。早く、自分の力で生きていけるようにしないと。

 

彼の家に連れ帰られてから、彼はやっと口をきいた。

「…フリードリヒ・タルナートだ。ここにあるものは好きに使ってくれて構わない。わからないことがあったら聞いてくれ。」

初めて聞いた、一番言葉に情ののっていない声だった。他の親戚たちでも少なからず、同情の色を含んでいた。彼は、おそらく自分たちに興味はないのだろう。彼は普段日中は外に出ているし、夜は書斎に引きこもっていた。

 

それからは、目まぐるしい日々だった。別れもままならないまま、住む場所が移って、新しい学校で。変なタイミングだったから、なかなかなじめなくて。

 

朝起きて、パンを二枚焼いて、適当なジャムを塗って牛乳と流し込む。妹にも食べさせながら、支度をしていく。手が止まってテレビを眺める彼女をせかしながら、ついこの間までせかされていたのは自分だったのにな、と不意に思う。バックパックを背負って妹の手を引いて家を出る。彼女を連れているから、自転車で友達と通学することもできないし、帰りも学校が終わったらすぐ迎えに行くので、放課後の遊びをいつも断ってばかりだ。だからなじめなかったのだろう。唯一、心配して声をかけてくれたのは彼女のシュピールグルッペの管理人さん。「ルイもここで友達と伸び伸び遊んでいるよ。ハルももっと肩の力を抜いていいんだ。大丈夫、Gott Liebt Dich. ”神は君を愛しているよ”」そのおまじないの言葉を彼は会うたびに唱えてくれた。大きくなってからもずっと使っている魔法の言葉。きっと大丈夫だって気持ちになれるの。

 

休日は母親の記憶をたどり、卵を割る。はじめは殻を入れずに割ることだってできなかったけど、すぐに上手にできるようになった。減っている冷蔵庫の中身を見て知ったのか、料理をするなら自由に買い物もしていい、と彼にお金を渡された。何を買っていいかわからなくて初めてスーパーに行った時は持って帰れないほど大きな包みになってしまったが。

 

休み休みその包みを運びながら、通り過ぎていく大人たちはかけらも自分を映してないことに気が付く。真っ赤になった手をぎゅ、と握って、開いて。そしてまた包みを持ち上げる。潤んだ瞳から悔しさがこぼれないように歯を食いしばりながら。

 

パッケージの裏を見て作った料理も、いつもの味と何か違うと首をかしげる。時間をかけて、懸命に作っても、おいしいのその一言すら得られなくて。もっと、母さんにおいしいって、ありがとうって、言っておけばよかったと今頃後悔する。

 

 そうやって、裏側も、苦しみも、食べて。心を削りながら

 少しずつ大きくなる。

 

「ムッティはどこに行ったの?」

ある夜、そんなことを唐突に聞かれて。

「もう会えないんだよ。」

疲れていたんだ、きっと。だから、いつも大丈夫だよなんて意味のない言葉を繰り返していたことも忘れて、ぼそっとその言葉を吐いてしまった。

「な、なんで…?なんでぇ…」

泣き出してしまう。ああ、そうだだから、泣かせたくなくて今まで頑張ってたのに。でも、もう

「知らないよぉ…あたしの方が聞きたいもん、うぅ…あたしだってムッティとファーティに会いたいぃ…!」

堰を切ってもう止まらない。なんでなんで。

「もうやだぁ」

突然泣き出した姉に驚いて涙が止まった様子にも構いもせず声をあげて泣いた。どうしても孤独感を紛らわせられなくて。今すぐハグしてほしい。

 

普段音沙汰のない書斎の扉が開く。あぁ、今までいい子にしてたのに。こんなにうるさくしたら、追い出されてしまうかもしれない。しかし、彼はこちらに構わずキッチンに向かう。そうか、ほんとうに興味がないんだ。どうしたらいいのかわからなくて、また泣き出しそうになっている妹を慰めなきゃ、涙を止めなきゃ、とするとぼやけた視界の先で影が映る。

「飲むかい」

目は合わないが、眉を下げてマグカップを二つ持った姿があって、それでまたワンワンと泣いてしまった。

 

ひとしきり泣いて落ち着いた後、ダイニングに向かって 鼻をすすりながら彼の入れたホットミルクを飲んでいた。こわい夢を見て起きてしまった時、父親が良く作ってくれたのと似てる。でもこのホットミルクは昔飲んだ物とは違って、すぐ飲んでも火傷しない程度に冷まされたものではなかったが。

その夜は、助けを求めれば、応えてくれる大人がいることを知った。

 

それから、彼は不器用に関わってくれるようになった。はじめはあまり言葉を交わすことはなかったけど。料理はできないという彼にまた下手な料理をふるまった。やっぱりなんか違う、変な味だったが、彼はおいしいよ、と眉を下げ笑った。

 

休みの日にスーパーに一緒に行くことになった。いそいそと妹に靴を履かせ外に出ると、彼は黒の高そうな鉄の塊のカギを開けて待っていた。そうだ、これは。立ちすくんだまま、先に乗り込んだ妹に不思議そうに見つめられる。大丈夫。あの時みたいにはならない。だから…

自分に言い聞かせていると、彼は「歩いて行こうか」となんてことないように言った。大人ってものはこうも簡単に自分の心を見透かしてしまうのかと知った。

妹と手をつないで彼の背中を追う。さすがに慣れた車道側。彼女の歩幅に合わせていると、彼にどんどんおいてかれてしまう。抱えて彼のもとに早歩きで向かうと、いやいやと暴れた。それで気が付いたのかごめんね、と時折振り向く。振り向き際、合う視線になんだか照れ臭いようなくすぐったいような気持になった。

買い物慣れしていない三人だからまた、カートいっぱいに買ってしまったけど、今度は自分の手をふさいでいたものは妹の手といくつかのお菓子の入った袋。目の前の背中をじ、と見つめる。彼とも、一緒に歩いていけそうな気がした。

 

迷い迷って、どうすればいいかわからなくなって、自分を疑いたくなっても、真っ直ぐ前を向いて生きていこう。助けを求めれば、必ず応えてくれるから。そういう人が、必ずいるから。不安で息苦しくなっても、ただ、真っ直ぐ真っ直ぐ前を向いて行こう。

 

そうして、三人で作ったホットクーヘンは、父さんの味にも、母さんの味にも違ったけど、とてもやさしい味がした。毎年食べていた母親の手作りのケーキにも負けない味だった。そうしてまた年を重ねる。

 

重ねるにつれいろんなことを知った。いろんなことができるようになった。父さんと母さんに守られてきたHaduじゃなくて、フリッツとルイと協力していくHadu。そうやって、変わっていくのも間違いなんかじゃないから。ここはもう、正しさだけが溢れる箱庭ではないけど、悲しさだけが溢れる孤独な場所でもないから。

 

だから、あたしは、真っ直ぐ真っ直ぐ、前を向いて生きてゆくよ

 

 バースデイ/湯木慧