進路希望書1

雲に覆われた空色がだんだん暗くなってくる。この季節は日が短くなっていくだけでなく、日ごとにだんだん暗くなっている気がする。カレンダーに急かされているようでどうも気分が悪い。今日中に提出の進路希望書の上でペンを回す。そんないきなり言われてもと思ってしまうが、周りの友達がのこされていないのを見るに、何かしら書いて出したのだろう。知らないうちに決めるなんて薄情な奴らだと見当違いの何度目かの文句に反応するように教室の戸が開いた。

「あれ?まだ残ってたのか」

「書き終わってから帰れって、残されてんの~。……司せんせーはなんでセンセ―になったの?」

目の前で未だ消しカスしか乗っていない紙をひらひらとさせると、先生はもうそんな時期かぁと呟きながら向かいの席に座った。

「学生時代、憧れの先生がいたんだ」

「え」

生徒と年が近いこともあり、優しく親しみやすい先生として定評のある彼は浮いた話が噂になることもあったが、そのたびに否定されていたからそんな面白い話が聞けるとは思わなかった。それに体育教師らしい熱のこもった授業をするから、教師に強い思い入れがあるんだろうとよく言われていたのに、たったそんなことで進路を決めているのも意外だ。

「英語の先生でな。……はじめはあまり得意ではなかったんだけど」

懐かしむような柔らかい表情で口を開く。

Bitter Sweet Sour

降る音や 耳もすう成る 梅の雨

 

ただ教科書の文字を写しただけのノートをまっすぐ線が通る。その線は他より少し薄くて、反対側からでは書きにくかったようで隣にまわってきた。

「『すう』は『酸う』でここでは梅の実のように酸っぱくなることと掛けていて……」

線を引いたひらがなの隣に綺麗な漢字が書き添えられていく。一つ頷いてこちらのペンをまた走らせる。いつもの特訓の甲斐か少しのヒントでだんだんとわかるようになってきた。高張は俺が成長したからだというけれど、教え方が俺に合わせてわかりやすくなっているのもあると思う。

つまり、雨季はユウウツだという話だろう。その感覚には日本のものと通ずるところがある。空が不機嫌になっていて、その空気が降り注いでいる。こんな日には外で体も動かせないから、小さい時から好きではなかった。

雨の降るだけの放課後をチャイムが割って入る。この空間を分つ音。どちらからともなく教科書を、ノートをカバンにしまってどうでもいい話をする。

曰く、雨は結構好きだ、と。雨の降る音をぼおっと聞いているのは落ち着く、だの湿ったアスファルトの独特な匂いが気に入っている、だの。みずたまりに雫と足跡を弾ませながら傘を傾ける。

俺はあまり好きじゃないんだ。あぁ、大変なことも多いものね。ウン、それに

少しかがむと目の高さにくる傘を指で押し上げる。

これが邪魔であまり目が合わないから。

 

少し寂しい

 

 

 

 

 

そう言うと少し視線をさまよわせたあと、自分のそれを畳んで隣に入ってきた。せっかく邪魔がなくなったのに、顔を上げてくれないと目が合わないだろう。

熱帯夜2

あらすじ:咲弥さんが拗ねてビールを開け始めたものだなぁ(熱帯夜1 - toffifeeの本棚 (hatenablog.com

 

程よく宵も回っていき、ネットに乗せた音声や画像とも別れを告げる。待たせてしまった最愛の人は普段食事を共にするローテーブルにもたれかかっていた。いつも猫背ではあるが、素面で物に体を預けているところはあまり見ないから心配する。

「咲弥さん、寝ちゃいましたか……?」

小さく声をかけるとむくりと目を合わせ、へら…と笑った。周りからは表情が読みづらいと言われる彼だが、あまりそうは思わない。笑った顔はこんなにかわいいし、あまりよくわかっていないときは横に?が出ていそうなくらいかわいい。

「ん、つかさぁ……♡」

常に愛おしさを更新しながら、頭を擦り付けてくる。胸では心臓が跳ねるのと一緒に耳がぴくぴくと主張している。誘われるままに頭を撫でると温かくてふわふわした耳は横に寝かしつけられていた。いつしか見たテレビの猫特集では耳を倒すのは撫でられ待ちの合図だったはずだ。猫の特徴をそのまま当てはめるのもどうかと思うが、じっさい喉を鳴らしているので近いところもあるようだ。

「おわったのか……?」

猫なで声のように一層優しく問いかける声にこちらの声も必然、優しくなる。

「はい、おまたせしました。咲弥さんは、……これ、飲んでたんですか?」

軽く持ち上げた缶はまだ半分ほど中身を残していた。んんぅ、とうなっている赤毛を撫ですくめると尾がその手を追う。

「一人で飲むのは危ないですよ。……って俺言いましたよね?」

髪とそろいの紅鳶色がこちらを窺い、だってとそむけた。だってつかさが、ととがらせる口を軽く食む。

「俺がなんですか?」

また声にならない呻きを胸板に押し付けてくる。言葉にするのが得意ではないこの人が、じぶんの気持ちをわかろうとして、言葉にしようとしているのもかわいい。名前を読んで耳を撫でるけれど、決して急かしているわけではない。

 

「…………ごめんなさい、…♡?」

 

謝ってほしいわけではなかったが、その声も瞳も期待に濡れていたので仕方なかった。