ここはつまらない。
何をしても返ってくるのは”模範回答”ばかり。
そんな空間に、いや、求められた模範解答を返してしまう自分に、嫌気がさして、
その日俺はその箱庭を飛び出した。
そのために貯めていた金でネット喫茶に泊まったり、たまには公園のベンチにぼーっと座って夜を明かしてみたり、
あんな壁に囲まれた空間では到底味わうことのできなかった非日常感。
全て自由だ!何をしてもいい、何もしなくてもいい
正解なんて探さなくていい。
こっそり家を抜け出して繰り出した夜の街を思い出す。でもあの時と決定的に違うのは、もう帰る場所がないということだ。
縛りがなくて、好きなようにしていいって、すごく、…楽しい!
決して多いとは言えなかった友人に連絡を取ってみることにした。学友などではない少し奇妙な、でも面白いやつ。自分やあの箱庭にいたものとは違う発想で、とても刺激的で、彼女といると飽きないのだ。日本を紹介してほしいと言われていたから案内がてらどこかへ行ってみるのもいい。
少し迷って、彼女の母語で連絡をすると日本語で少し馬鹿にしたような返事がすぐに返ってくる。少し悔しいが、楽しみにしているとの言葉に機嫌をよくし待ち合わせの場に向かう。こんなふうに軽口をたたいてくる相手も今まで居なかったのだから。
少し早く着きすぎてしまったベンチで座り、動物園なんて日本じゃなくても来れたな、などと少し後悔しながら特に目的もなく端末を操作していると久しい声が耳をたたいた。
決して自分も背の高い方ではないが、彼女の隣に立つと余計小さいような気がする。…別に気にしてなんかいないが。
それでも、体全体で浮かれている様子を表現しているのを隣で見るのは悪い気がしない。
そんなこと気にしなさそうな彼女が帽子で日よけまでしているような季節だ。自販機でお茶でも買ってこようと、待たせていたのが悪かった。
いや、思いのほかお茶の種類が多くて、迷った挙句全種類買ってきたのが悪かったのかもしれない。いや、だって、ペットボトルに入った飲み物を人に買っていくなんてしたことなかったんだから、仕方ないだろ。
戻ると彼女は男に声をかけられていた。ニコニコと愛想を振りまき気持ちの悪いやつ。こういう人間は今まで何人も見てきた。どうせ自分の利益にしか興味のないタイプだ。彼女はきっと人の悪意に気づきにくいような奴だから、利用されるに違いない。出会った当初だっていくら突き放そうとしたってとんちんかんなことを言って何の裏もないような笑顔で飯を奢ってきたような奴だ。…しかし、そんなところが嫌いではなかった。
「おい」
ペットボトルを何本も抱えて睨みつける姿はさぞ滑稽だったろう。その男は目をしばたかせて彼女に助けを乞うように視線を戻す。
「…悠先生、お知り合いですか?」
「おう、今日ここに連れてきてくれたんだ!」
「あっ、私お邪魔してしまいましたね、では私はこれで」
「えっ葵センセ1人ならいっしょに行こうよ」
逢瀬だと勘違いしているのか困惑気味の彼を引き留める意味が分からない。そんな怪しい奴を連れるだなんて。
「な、清仁もいいだろ?」
そういわれてしまうと、俺は抵抗の術を持たない。
「………………………………………………ああ。」
いつもそうだ、流されてばかり。
挨拶も兼ねてカフェに入ろうという彼女の提案で俺たちは屋根の下で涼むこととなった。買いすぎたお茶たちは彼女の手によって、周りのちびたちに分配されていた。その間あいつの不思議そうなものを見る目がたいそう居心地が悪かった。お前だよ、お前!俺じゃねえよ、お前の方が怪しいんだよ!
動物が店員などと抜かす彼女について行くと、そこは不思議な空間だった。いつの間にか戻れなくなっているし。
そんなことはどうだっていい。こうして無事に戻ってきていることだし。問題は…
そう、忘れられない。
あんな体験初めてだった。喋る動物に合うのも自分の体が思い通りにいかなくなるのも、隣で人が動物になっていくのも。
あの空間は異質だった。だから、自分の思い通りにいかないのは仕方ない。しかし、
あの男には自分の話が通じないのだ。拡大解釈やうまい論点のずらし方で上げ足をとるし、挙句の果てには勝手に人を抱えてくるし!
今までこんなに自分の思い通りにならないことなんてなかった。だから、なんだか、どうしてか、忘れられなくなってしまったのだ。
あのからかうように引き上げられた口角が、馬鹿にしているように細められた目が、時折困ったように首をかしげる姿が、ずかずか踏み込んでこようとするくせにこちらが手を出すと凛として引いてくるその線が。
まだ自分は家を出て日が浅い。今まで自分のいた世界が狭すぎて、初めて会うタイプに気が動転しているだけだろう。もっと他の人にも会って、もっと世界は自分の思い通りにならないことを知って。自分のペースを存分に乱す人間があの男だけじゃないことを知って。
そうすれば、あいつのことだって、忘れられるだろ。