月が綺麗な日 3節

深い深い海からとぷんと顔を出すように微睡から解放される。するすると絡みつく水の束からひとつひとつ離れて行って体が動かせるようになって。まだ少し重さの残る体を起こすと、ぼやけた視界にだんだんピントがあう。未知の生物を拾うに当たって窓を全部塞いだり、準備はしていたのだが、如何せん寝起きが悪くなった。陽光で体内時計をリセットするという話は本当らしい。跳ね上がった前髪を撫でつけながら寝具から降りるとカンカンカンと金属音が響き渡った。

「あ~お~い~センセ~~~!!!!!!」
大海原まで届きそうなよく通る声が押し寄せて、せっかく直した寝ぐせもまた重力に逆らってしまった。そうだ、もうこんな時間。ドアの隙間から少し時間をもらって、最低限身だしなみを整える。元気に主張するアホ毛はとうとう直らなかった。

 

「すみません、お待たせしました。」

「大丈夫だぞ!おねむだったか?」

「いえ…ヤ、はい…」

 

朝起きたら手紙が来てたから急いできちゃった、とはにかむ彼女は得意先。薬の原料から生活に必要なものまで取り扱い、さらにこの森の奥にまで届けてくれるというサービスっぷりだ。今日は新しい家具を頼んだ、のだが。彼女が肩に抱えているのは木材だけ、背中にはリュック。いや、だけという量ではないが。なんだ、その量を抱えてここまで歩いてきたのか?理解できるような、したくないような目線をその荷物に向けると、どうせなら置く場所で組み立てちゃおっかなと思ってと笑った。

一応手伝いは申し出たが自分で持てるとのことだったのでありがたく運んでもらうことにし、階段を上っていく。大した荷物じゃないという顔ですいすい上っていくものだから、…本当に軽いのかな。一つ抱えるだけで息が上がってしまう未来は読めているが。どうにも人より少し足が速かったり重たいものが持てたりするらしい。場所を指定すると彼女はてきぱきと組み立てていった。自分はもう板を抑えてるくらいしかやることがないくらいに。組み上がったそれにどこから取り出したのか、マットとシーツ、布団をかけて、いかにも手作りなベッドが完成した。

「あとは、いつものやつだな」

薬の材料になるような植物や特別な処理をした道具、まとまった量の食糧をリュックから出して机に並べていく。彼女は元々町の薬屋を家族とやっているらしく、薬の材料を買う相手なだけであった。その町一番の、いやその周辺の地域を含んでも唯一の大手おくすり屋さん。多少遠いところでも看板娘が飛び回って薬と一緒に笑顔と元気も届けてくれると評判なようだ。ただちょっとおしゃべりすぎるところが玉に瑕。いや、そんなところがいいんだろうが、すっかりペースに乗せられてみな何でも話してしまって、街の情報屋とも呼ばれるほどだ。かくいう自分もその被害者。大量に薬剤を買っても怪しまれないように研究職だなんて答えたらセンセと呼ばれる羽目にもなったが、まあ広い目で見れば嘘はついていないだろう。

しかし他人のネタをもとに話をしたり利益を求める質でもないようだ。こんな辺鄙な場所に住んでいると言えば届けてやる!と言い、なんの道具もない綺麗なキッチンを見ては食べるものもいるよな!と用意し、果ては困ったことがあれば彼女に言えば何でも解決する便利屋のような扱いをされている。そのお節介焼きな性格から、思惑のある人間にいいように使われるのでは、と一度忠告したときは、悪いやつはわかるから大丈夫だぞ!とあっけらかんと返されたので、それ以降素直に心配してやるのはやめた。

ソファにくるまっている塊にふっと視線をやって、運ぶか?と抱える。返事なんかしていないのに当然のように階段を上っていくのを尻目に薬品たちを先に片づけてしまう。中には特別な処置が必要なものもあるのだから、早く仕舞って問題はあるまい。決してもう階段の上り下りが面倒だとかそんな理由ではないですよ、ええ全く。

「…葵センセ」

気が付くとすぐ後ろにどこか神妙な面持ちで立っていた。いつも騒がしさを振りまいているのに急に静かになるから困る。はい、なんですかと立ち上がると言いにくそうに視線をさまよわせた。

「その、…あの子」

「はい」

「どうしたの」

「なにかありましたか」

「いや、あの…」

珍しく歯切れの悪い彼女に不安になってくる。静かだったから起きたとかではないだろう。脈がないとか、気づいてしまったかな。

「……悪いやつではないのはわかるんだ。でも、その、気を付けるんだぞ」

変なこと言ってごめんな!と眉は下げたままで、でもいつものような晴れに戻る。それじゃあまた何かあったら呼んでくれ、と。平らになったリュックを背負って帰っていった。

 

そんなに言われたら気になるじゃないか。事情も名前も知らない彼。あんなところで逃げていたなんて面倒を抱えていることだけはわかるけれど。いろいろ、教えてくれたら、いいのになぁ。

 

「これが何かの前触れじゃなければいいですけど」